紅の天鵞絨がだらりと垂れ下がる。
そこにも矢張り煙の匂いは沁みついていた。
この国の何処にいても感じられるそれは、眩暈を覚えるほどで。







「中国さん?」

日本は、その奥に声を掛けた。
以前は賑わっていたこの場所も、今は寂しい印象ばかりを抱かせる。
返答はなかった。

「中国さん、……入りますよ」

日本はその部屋に足を踏み入れた。
反応はないが、彼がここにいるのは間違いないのだから。
部屋は少しばかり薄暗い。紅い天鵞絨の向こう、その背中が見えた。



「―――中国さん」
「あ、……日本、来てたあるか」
「先程、何度かお呼びしたのですが」
「………気付かなかったあるね」



中国は弱々しく笑う。
その顔は明らかにやつれていて、疲弊の色を顕している。

「日本、そこらへんに座るよろし。我は飲茶淹れてくるある」
「中国さん、あの」
「何、気にすることないあるよ。英國に沢山持って行かれたとは言ってもこのくらい無問題あるね。
 お前はそこで待ってるよろし」

中国は椅子から立ち上がる。途端、よろめいた。

「大丈夫ですか、」
「何ともないある」

口でそう言いはするものの、その足元は覚束ない。中国は額を押さえる。
一歩一歩が躰を支えきれていなかった。弱った足では、自らの躰すらも支えられぬのだ。
中国は堪えきれずその場に崩れた。



「中国さん……!」



日本は駆け寄り、その躰を抱き留める。
同時に、その躰の軽さに愕然とした。
折れそうなほど細い背中、服の上から触っただけでも骨の形が判った。



あんなに、大きかったのに。
あんなにも大きかった存在はこんなにも痩せ細り、力なく腕の中に倒れ込む。

その薄い肩が、震えていることに気がつく。

「中国、さん……」
「我、は」

乾ききった唇を噛み、押し殺した声で。





「我のこんな姿、日本にだけは見られたくなかったある……!」





考えないようにしてきた。
それでも自らの姿は惨めに、哀れに見えるであろうことなんて分かりすぎるほどに分かっていて、
そんな姿を日本にだけは見られたくなかった。

いつだって、お前を守る“兄”でありたかったのに。



「お前を守りたかった、のに」





折れそうだと、思った。

そう感じながら、日本は力の限り中国を抱き締める。
震える躰がどうしようもなくいとおしくて、かなしくて。
初めて自分が抱いたのだということに、気付いた。
守られるばかりでは、抱くこともしなかったから。



「大丈夫ですよ」



あなたの震えが止まるまで、抱いていられればいいのに。

「ねえ、中国さん」
「に、ほん……?」
「あなたは、私を弟のようなものだと言って下さいました。それなら、」


兄が弟を守らねばならぬのだと言うのなら、


「弟が兄を、守らなければならない時だって、あるんじゃないですか」



今度は、私が守るから。





頷いたその顔、服にしがみついた手のひら、すべてがいとおしかった。
守りたいと、そう思った。

自分は臆病で、こんなときでもないと守るだなんて誓いは立てられない。
でも今、せめて今だけでも守れたなら、あなたに報いることができるだろうか。


「日本、……謝謝」

小さな、ちいさな言葉。



「――笑って下さい、中国さん」
「え」
「笑うあなたの強さを、私は好きだから」



笑って、下さい。







「あなたを傷つけたものを、私は許さない」















***














「結局のところ私は、誓いを守れるほど強くなかった、ってことなんですかね」



日本は空を仰ぎ、日の没するを見つめた。



あなたがいとおしかった。
あなたの強さに憧れて、あなたの優しさにいつだって守られていた。
その笑顔を守りたくて、あなたを傷つけたものを憎んだ。


「それなのに、私が」


私が、傷つけた。

他の誰にも傷つけられたくなかったあなたを、誰よりも傷つけた。
他の誰かに傷つけられるくらいなら、私が傷つけてしまいたい、なんて。



「中国さん」



あなたの表情を、忘れない。
私が傷つけたことを忘れない。
私は私に許されずに生きてゆく。

だって優しいあなたは、きっと私を許してしまうから。

誰よりもあなたを傷つけた私が、誰よりもあなたに救われるなんて、あまりに甘すぎて。





「中国さん………」










その笑顔が見たいだなんて、私はもう思うことを許されないから。




















***



080201*檜扇